WinningTicket’s blog

娘の高校受験(2025年)に向けた記録です

追悼 ウイニングチケット

※今回は教育とは関係ないので、興味のない方はスキップしてください。

 

先日、ブログ名にも使わせてもらっているウイニングチケットが33歳で亡くなりました。

 

馬としてはかなりの高齢になりますが、今年に入っても元気な様子だったので、とても残念に思います。

 

疝痛で亡くなったそうです。(疝痛:馬の腹痛を伴う病気の総称)

 

 

ウイニングチケットは1993年のダービー馬です。

 

競馬の世界においては、ダービーはとても重要なレースで、競馬関係者は18頭しか出走できないこのレースに向けて馬を育てているといっても過言ではありません。

 

競馬を実施している国であればダービーというレースはどこにでもあります。

(ちなみに日本の正式名称は東京優駿です。日本ダービーは副称です。)

 

馬は人と同じように産まれた年を0歳としてカウントしていきます。

 

2歳の6月から競争レースが始まり、1年後の5月末に行われるダービーの18頭の枠を目指します。(厳密に言うと異なりますが、それまで獲得した賞金が多い馬がダービーに出走できます。)

 

ダービーは3歳の春に行われますが、人間で言うと18歳と言われ、大学受験の頂上決戦といったところかと思います。

 

ダービー馬で特に有名なのはディープインパクトでしょうか。この名前は聞いたことがある方も多いかと思います。

 

ウイニングチケットの情報は以下が詳しいです。

 

生年月日:1990年3月21日


(競争成績)

獲得賞金:3億7,177万円
通算成績:14戦6勝 [6-1-2-5] ※6勝して2着が1回、3着が2回、4着以下が5回ということです。

(父親として)

産駒数/種付数:507頭
産駒勝利数:113勝

 

ウイニングチケットを私が初めて認識した日を今でも覚えています。

1992年12月6日です。(ちなみにこの時は馬券を買ってはいけない時ですね。。。どうでも良いですが。。。)

 

この12月6日に、同じ父(トニービン)を持つケントニーオーという馬がデビューしました。(この馬も好きでした。)

 

同じ日にトニービンの産駒(子ども)が2頭勝ち、どちらも今後が期待できる内容だったこともあり、記憶に残っています。

 

ウイニングチケットは約3か月振りのレースでしたが、1番人気(勝った時のオッズが一番低い馬という意味)に応えて、葉牡丹賞(500万下)というレースを勝ちました。

 

この次のレースのホープフルステークスという比較的大きなレースを良い形で勝ち、注目を浴びるようになりました。この時からダービーでも騎乗する柴田政人騎手になっています。(デビュー時にも騎乗はしていますが。)

 

年を明けてウイニングチケットは競馬の王道を進むことになります。

 

ダービーまでの道のりは、

 弥生賞(G2)→皐月賞(G1)→日本ダービー(G1)

でした。

 

G1やG2は競馬のレースの格付けで、G1が一番格式高く、G2がその次と理解すればよいかと思います。

 

年明けの初戦の弥生賞でも1番人気に押されましたが、2番人気で武豊騎乗のナリタタイシンとほぼ同じようなオッズでした。

 

ここでウイニングチケットは力を見せつけて完勝します。

 

この辺りから、柴田政人騎手の初のダービー制覇という報道が強くなっていきました。

 

最初にダービーの重要さを書きましたが、騎手にとっても同じで、ダービージョッキー(ダービーで勝った騎手という意味)に憧れています。

 

当時、破竹の勢いで勝っていた武豊騎手でさえも、デビューしてからスペシャルウィークでダービーに勝つまで10年以上かかっています。

 

柴田政人騎手は当時一流騎手でしたが、1967年にデビューしてからダービーには縁がありませんでした。ダービーに勝つためには実力だけでなく、馬や関係者との巡りあわせも重要です。

 

結果的に柴田政人騎手は1995年に騎手を引退しているので、ウイニングチケット柴田政人騎手に大きなプレゼントをしました。

 

弥生賞を勝ったウイニングチケットは堂々と1番人気で皐月賞(G1)へ向います。

 

皐月賞弥生賞と同じ競馬場、同じコース、同じ距離のレースで、弥生賞を完勝したので1番人気は当然ですが、まだ戦っていない強敵がいました。

 

それが、岡部幸雄騎手が騎乗するビワハヤヒデです。(当時は西の武豊、東の岡部というぐらい有名な騎手です。)

 

途中まではビワハヤヒデが間違いなくダービーを勝つという雰囲気でした。ただ、2つのレースで連続して2着していたこともあり、人気は落としていましたが、岡部幸雄騎手に乗り変わり、復調気配でした。

 

結果的にウイニングチケット皐月賞(G1)で4着に敗れることになります。負けた要因は色々あれ、ちょっとビワハヤヒデを意識しすぎて、本来のレースができていなかったのかなと思っています。

 

皐月賞を勝ったのは、弥生賞で負かしたはずの武豊騎手のナリタタイシン、2着にビワハヤヒデでした。

 

この時の武豊騎手の騎乗が見事でした。レース中は後方に位置し、ナリタタイシンの一瞬のものすごい切れ味を活かして勝ちました。

 

ダービーに向けて3強というキーワードで盛り上がっていきました。

 

ウイニングチケット皐月賞を負けたものの柴田政人騎手にダービーの初勝利をプレゼントできるか。

ビワハヤヒデ:必ず2着まで来る堅実さで岡部幸雄騎手にダービー3勝目をプレゼントできるか。

ナリタタイシン:ダービーでも皐月賞の再現をし、武豊騎手にダービーの初勝利をプレゼントできるか。

 

この中でも「柴田政人騎手にダービーの初勝利」という話題が強かったように感じます。

 

ダービーでの人気は以下のようになりました。

 1番人気(3.6倍) ウイニングチケット

 2番人気(3.9倍) ビワハヤヒデ

 3番人気(4.0倍) ナリタタイシン

 

括弧内が倍率ですが、3強と言われても、ここまでオッズ(倍率)が接近することはほとんどありません。それだけどれが勝つのかの意見が分かれたということになります。

 

レースは、ビワハヤヒデが中団から、それを見る形でウイニングチケット皐月賞と同様、後方から最後の脚にかけたナリタタイシンでした。

 

※観てもらったほうが早いですね。。。

 

馬に番号がついていますが、

 ウイニングチケットが10

 ビワハヤヒデが7

 ナリタタイシンが1

です。

 

www.youtube.com

 

柴田政人騎手とウイニングチケットが通ったコースがとても良かったです。最後はこの3強が上位3頭に来る、人気通りの結果となった素晴らしいレースでした。

 

ウイニングチケット柴田政人騎手に初めてのダービーをプレゼントすることができました。

 

私はウイニングチケットを応援していたので、胸が熱くなったのを覚えています。このブログを書くにあたり、ウイニングチケットのダービーを改めて観て、胸が熱くなりました。。。

 

wikiからの抜粋になりますが、下記逸話も残っています。

「牧場から厩舎に来た次の日、調教に騎乗した笹田和秀は「この馬はダービーで勝ち負けできる能力があると思いますよ」と伊藤に進言した。すると伊藤はその場で「ダービーに勝てる馬が来たぞ」と言いながら、ダービー未勝利の柴田政人に騎乗の依頼を行っていた」

 

ダービーを勝ったウイニングチケットは、結果的にダービーがピークとなりました。

 

競争馬にも早熟、晩成があり、どの年齢の時にピークになるかは馬によって変わります。ウイニングチケットは比較的早熟だったということだろうと思います。

 

ダービー後は休養し、秋初戦の京都新聞杯(G2)は勝ったものの、それが最後の勝利となりました。

 

ダービー後は7戦して、ダービーの翌年の1994年秋の天皇賞を最後に引退しました。(引退理由は屈腱炎という故障です。)

 

引退後は種牡馬となりました。競争馬で種牡馬となるのはほんの一握りで、かつそこから人気の種牡馬となるのはごく一部の厳しい世界です。

 

ウイニングチケットは最初の内は種牡馬として多くの子どもを作りましたが、レースでの結果が伴わず。。。約10年で種牡馬を引退しています。

 

 

ウイニングチケットの名前を拝借してブログを始めて、時々ウイニングチケットの状況を確認するようになりました。

 

今回の死でウイニングチケットの状況が流れてくることはもうないと思いますが、このブログを書いているうちは忘れないだろうと思いますので、同じ名前でブログを続けれいければと思います。

 

そしてウイニングチケットと同様、最終的に「ウイニングチケット」で終わることができるように頑張っていきたいと思います。

 

 

最後に、このブログを見るより、wikiを見たほうが詳しいな。。。と記載後に気づきました。

ja.wikipedia.org